昭和の臨済宗でサトッタ人。山本玄峰(1866年~1961年) ウィッキペディアに詳述あり
山本玄峰(1866年~1961年) ウィッキペディアに詳述あり
いろいろなところに出向いての修行だったようです。
太平洋戦争終了を宣言した昭和天皇の玉音放送「耐えがたきを耐え・・」の原案を作ったことで知られています。
東大坐禅部でも師家をつとめられました。
弱視ゆえ、唯一の著書「無門関提唱」は名著です。
(アマゾンでも古本として在庫がありそうです。
昔わたしが買ったときは安かったのですが。
いまはなかなか高値です。)
玄峰は弱視になり、旅館業の仕事ができなくなり、四国遍路を始めました。何度目かの歩き遍路で立ち寄った寺で下男として雇ってもらえました。彼の働きぶりに感心した住職が「本山に行って修行してみるか」と聞いたそうです。玄峰は「わたしのような目の悪いものでも坊さんになれますか」と尋ねたところ、住職は「普通の坊さんにはなれんが。本物の坊さんにはなれる」と答えたそうです。サトッタ人になれるといったのです。
玄峰は本山やほかの山でも、坐禅につぐ、坐禅の修行をしたようです。ついにある人の印可証明をいただきました。そのごも坐禅につぐ坐禅だったのでしょう。ついには妙心寺の管長になりました。管長職を辞したのちも多くの人たちが相談にいったようです。よい答えが返ってきたのでしょう。サトッタ人とはそのような働きができます。超有名なところではシャカ、松下幸之助などなどいらっしゃいました。
※シャカのサンガでもシャカ以外でもアラカンと認められた人はそのようは働きがで
きて評判がよかったようです。シャカはもちろんNO1。
その点は原始仏法が文章として書き残された時に、シャカがただ一人の特別な人と
して書き換えられたとする意見もあります。
もちろんパーリ語の和訳もできるほどの専門家がたくさんの文章を読んでの意見で
す。なるほど。