日本仏教界のスーパースター弘法大師空海
日本人で最初に神秘体験しました
日本仏教界のスーパースター空海
空海の神秘体験
空海は、まだ僧名もない18歳から20歳まで虚空蔵菩薩求聞持聡明法の行(ぎょう)を行います。
吉野の葛城山から山脈を西へと向かいました。これは役(えんの)行者が和歌山の加太から東に向かい法華経23巻を埋めた山脈を反対方向へ向かったことになります。役行者は空海にとって100年ほど先輩の仏教者で当時超有名人でした。
空海は和歌山にいたり、四国にわたり、なおも虚空蔵菩薩求聞持聡明法の修行をしながら、山での行を続けました。
◎ 最初の神秘体験
太龍岳(たいりゅうだけ)で「谷響(たにひびき)惜しまず」というように書き残しています。
谷の斜面をよじ登っていると、足元の石が転がり落ちて、いつもと違って、大きな音がしたというのです。
「サトリの第一段階」の聴覚が鋭敏になることを表現しています。じつは眼、耳、鼻、舌、身、意すべてサトリの影響を受けます。空海の場合、山での修行で人に会うことも少なかったでしょうから、そのようなことは気づかなかったかもしれません。
◎ 次の神秘体験。行を始めて1年余りで、20歳のとき、 太龍岳より南に下った室戸岬の洞窟で『暁の明星』を見ました。
これは釈迦が見た「明けの明星」と同じ神秘体験です。空海は大変詳しく書き残されています。
A。「天空より宝剣が舞い落ち、眼前の地面に突き刺さった」。
もし自分の頭の上に落ちたら体は真っ二つ。
大変な恐怖、「恐怖体験」をそのように表現されたのです。
禅宗のほうには「100尺竿頭なお歩を進む」という公案があります。30メートルもある竿の上に立って、なお歩を進めよ。というのです。禅宗の禅師の「恐怖体験」の表現です。
それがすむと、いよいよ「暁の明星」です。
B。「東の空より、暁の明星があらわれて、遊来し、口に飛び込んで、胸にいたり、光を発す。
光を発してあたり一面が明かるくなる。これが夜明けのことです。だから暁の明星となります。
夢と希望 中国禅宗の歴史
夢と希望 中国禅宗の歴史
サトレタ人としての感覚が見つけた中国禅宗の歴史です。
大乗の世界で花開いた中国禅
参考文献: 新アジア仏教史 07 中国Ⅱ 髄唐 興隆・発展する仏教
第1項 中国禅宗の系譜(七祖まで)
菩提達磨―二祖慧可―三祖僧燦(そうさん)―四祖道心
―五祖弘忍(ぐにん/ こうにん)―六祖神秀―七祖普寂
四祖道心と 五祖弘忍は協力して山に入りたくさんの修行者ともに修行する「東山法門」を築いた。このことで多くの優秀な人材を輩出することになった。認められて 六祖神秀となった神秀は都に出て多くの門人を育てた。そして七祖普寂もまた多くの修行者を集めて活躍していた。
神秀は直接会った時の皇帝から「中国の仏教では 、三蔵法師玄奘と神秀の二人は賞賛さるべきであろう」と言われたということです。抜きんでた人だったのでしょう。
一方、恵能は南の方で活躍していて(南州)とされていた。
このような時代は中国禅宗がもっとも盛んだったころです。
禅宗のとっての大悪人・荷沢神会登場・・・神秀や恵能がなくなった後
六祖壇経の罪・・恵能を六祖にしています。
神会は七祖・普寂らに集まる修行者たちを呼び込むべく、六祖壇経という本を作り自分たちの理論の確立に使った。修行者を集めるべく北宗批判を繰り返し、宗教者らしくない過酷さに政府からは通行手形をとり上げられ、活動禁止の処分を受けた。たまたま安史の乱がおこり、神会はため込んでいたたくさんの金を出しました。これを軍資金にして政府は乱を」収めることができ、貢献に免じて活動を赦したようです。しかしその後の活動期間は短かったようです。彼の荷沢宗は消滅したのです。
神会の死後、六祖壇経があちこちから出てきました。それを読んだ人は坐禅とは簡単なものだ。頓悟出来てと。多くの坐禅修行者を惑わせることになりました。日本でも現在語訳が出ていますが百害あって一利なし。悪書です。鎌倉時代の道元禅師は偽書であると言ったそうです。サトッタ者ならわかるひどい本です。
恵能の流れで臨済宗も生まれましたが六祖壇経の被害も受けたようです。恵能の流れで中国曹洞宗も生まれて、如浄禅師の指導を受けて道元は「心身脱落」の印可証明をもらって帰国しました。