僧侶ではなく民間のサトッタ人たち

       民間のサトッタ人たちです

  釈迦牟尼会(大正9年創立) 民間団体であるがサトッタ人たちがいます。

  釈常光 初代会長です。「明けの明星」と推定

 禅宗本山で修行して因果証明をいただきました。本山に残るように説得されましたが、外護する人が富士山の近くに道場を用意して迎えたので、そこを基点にして、一般の人々の坐禅指導に取り組みました。関西方面にも足を延ばして活動されました。四国で旧制高校生苧阪氏と出会い育てました。苧阪光龍は2代目会長になりました。

 苧阪光龍氏を因果証明した状況から「明けの明星」ではないかと推定しています。

  苧阪光龍 2代目会長です。「明けの明星」と推定。

 特殊な文章を残されています。釈常光師の指導を受けて、サトリの第一段階に入られたようです。そのように推定できる文章を残しています。釈常光師に「高校を出たらすぐに富士道場へ行きたい」言ったところ、釈常光師は「君のような人がそのようにすれば、坐禅に取り憑つかれてしまうから大学に進むほうがよい」と言われて旧制京都大学へ。大学卒業後東大大学院へ進学、卒業。

    珍しい文章

 神戸大学坐禅愛好会・般若会が10周年を記念して出版した本に苧阪光龍師が不思議な十牛図の文章を寄稿しています。六図までです。よく読めば「暁天の許しを得て」と書かれています。わたしはこれを「暁の明星」(空海)と読みます。一般的に知らているのは「明けの明星」です。

 ※(十行図=じゅうぎゅうず=牛を描き込んだ十枚の絵 、サトッタ人が体験を語ると

   きに使う)

  秋月龍珉 苧阪光龍師に師事して因果証明をもらっています。

  のち一般企業に就職。

 昭和のサトッタ人の中でもっとも深いサトリをえた人だと推定しています。

 秋月氏東京大学インド哲学科に学んだ人です。大学卒業後は民間企業に就職され、なんと50歳を過ぎて妙心寺に得度して入門し、一年で嗣法の因果証明をえています。(妙心寺は釈常光が修行した本山だったようです。恩返しとして入山?)

 秋月氏のその後の執筆活動から「身心脱落」が入山のきっかけだったろうと推定しています。道元研究に取り組みたくさんの本を残されています。神秘体験すると同じ神秘体験をした人に大変興味を持つものです。

 「秋月龍珉全集」(春秋社)も出されています。

 さすがの思いで第一巻を興味深く読ませていただきました。

 ※わたしは思うのです。今の時代と違って情報を得にくい時代で秋月氏は惜しいこと

  をされたと。

  曹洞宗第四祖・瑩山の「只管打坐」を知っていれば知識を増やすよりも坐禅三昧に

  時間を使ったと思われるからです。惜しいことをしました。

 ※ついでながら、わたしは「無学求道」というペンネームを使っていました。昭和の

  サトッタ人たちは東大大学院、東大と続いています。わたしの出身大学は、地方大

  学です。大した学歴でもないので無学とひがんでみたのです。

   しかし、ずっと後にこの「無学」には大乗仏教の方ではサトッタ人=仏という意

  味があることを知りました。

   「僭越であろう」といちゃもんをつけられました。標準語では言いがかり?

   すでにサトリに入ってずいぶん年数もたっているのでと説明させていただき無学

  の使用をこらえていただきました。

  いまは涅槃にも達しているので問題はないと思います。わたしはサトッタ人ではあ 

  っても、せいぜいブッダであり、仏ではありません。原始仏法のお釈迦さん同様

  に。

    それが正しいと考えています。

  なお原始仏法の時代には哲学者を含む数名のブッダがいたそうです。参考までに。