原始仏法の釈迦(本名ゴータマシダッタ)をとり上げました。
第2項 原始仏法の覚るための方法 生活全般
出家修行というのは俗世間との縁を切るという意味で大変なことです。私有財産を一切持たず、彼らが体に巻き付けている黄色い布と托鉢用の大きな鉢、これらも布施によるものです。彼らの修行した地方が熱帯または亜熱帯であるからできることだといえます。もちろん住む家もなく、雨や風、夜露をしのげる岩屋や大木にできた大きな穴があれば幸い、そのようなことです。さて食事ですが、在家の人たちが鉢に入れてくれるものだけが頼りです。
生活に関する取り決め
参考文献:原始仏教 ―その思想と生活 中村元著 NHKブックス
P154
最初のうちは、まだ体系化されていなかったが…(中略)
「ところが後代になると、戒律箇条が整理された。南方アジア諸国に伝わるパーリ文の律蔵によると、男の修行僧(比丘)は227条、尼僧(比丘尼)は311条と規定されている。」
他の本にはお釈迦様がなくなったとき、ある比丘が「これで細々とうるさく言う人がいなくなり少しはやりやすくなった」と言ったそうです。
※1) わたしは出家修行者でさえこのような事だと。思いました。
※2) 佐々木閑さんによるとそれに対してベテランの修行僧が戒めを述べ
る。これでしっかりとサンガが守られることになった。サンガが崩
れるそれを先読みして作られていたんだそうです。
ユーチューブ動画参照。ブッダ最後の言葉。1、2、3、4。
※ また現在はタイ国の上座仏教はパーリ語の阿含経などを唱え合いながら
修行されているということです。かなり厳格な生活規則を守っているよ
うです。
日本からも修行に行ったり、あるいは本格的に出家修行者として修行
されているということです。たいへん殊勝な心がけだと尊敬していま
す。
第3項 瞑想法・アナ・パナ・サティ(出入息の念)
さすがと思われる優れた瞑想法です。
ネットで調べたところ詳しい説明があり、そこまで必要かと思いました。
わたしが、まねして行った方法がなかなか効果があったので書いてみま
す。
わたしは58歳で人生2回目のサトリに入りました。
そのとき、アナ・パナ・サティの説明を読みました。
これがポイントだと思うところを取り入れました。
出入息の念ともいわれるように、鼻先から出入りする息に集中しました。
集中を高めていきました。
どんどん高めていくと、息をしていることも忘れるくらいの状態になりま
す。
サトルために大切な「低酸素」を実現します。
やってみて、サトリのどのような段階でも使える優れものでした。
昭和の臨済宗でサトッタ人。山本玄峰(1866年~1961年) ウィッキペディアに詳述あり
山本玄峰(1866年~1961年) ウィッキペディアに詳述あり
いろいろなところに出向いての修行だったようです。
太平洋戦争終了を宣言した昭和天皇の玉音放送「耐えがたきを耐え・・」の原案を作ったことで知られています。
東大坐禅部でも師家をつとめられました。
弱視ゆえ、唯一の著書「無門関提唱」は名著です。
(アマゾンでも古本として在庫がありそうです。
昔わたしが買ったときは安かったのですが。
いまはなかなか高値です。)
玄峰は弱視になり、旅館業の仕事ができなくなり、四国遍路を始めました。何度目かの歩き遍路で立ち寄った寺で下男として雇ってもらえました。彼の働きぶりに感心した住職が「本山に行って修行してみるか」と聞いたそうです。玄峰は「わたしのような目の悪いものでも坊さんになれますか」と尋ねたところ、住職は「普通の坊さんにはなれんが。本物の坊さんにはなれる」と答えたそうです。サトッタ人になれるといったのです。
玄峰は本山やほかの山でも、坐禅につぐ、坐禅の修行をしたようです。ついにある人の印可証明をいただきました。そのごも坐禅につぐ坐禅だったのでしょう。ついには妙心寺の管長になりました。管長職を辞したのちも多くの人たちが相談にいったようです。よい答えが返ってきたのでしょう。サトッタ人とはそのような働きができます。超有名なところではシャカ、松下幸之助などなどいらっしゃいました。
※シャカのサンガでもシャカ以外でもアラカンと認められた人はそのようは働きがで
きて評判がよかったようです。シャカはもちろんNO1。
その点は原始仏法が文章として書き残された時に、シャカがただ一人の特別な人と
して書き換えられたとする意見もあります。
もちろんパーリ語の和訳もできるほどの専門家がたくさんの文章を読んでの意見で
す。なるほど。
僧侶ではなく民間のサトッタ人たち
民間のサトッタ人たちです
釈迦牟尼会(大正9年創立) 民間団体であるがサトッタ人たちがいます。
釈常光 初代会長です。「明けの明星」と推定
禅宗本山で修行して因果証明をいただきました。本山に残るように説得されましたが、外護する人が富士山の近くに道場を用意して迎えたので、そこを基点にして、一般の人々の坐禅指導に取り組みました。関西方面にも足を延ばして活動されました。四国で旧制高校生苧阪氏と出会い育てました。苧阪光龍は2代目会長になりました。
苧阪光龍氏を因果証明した状況から「明けの明星」ではないかと推定しています。
苧阪光龍 2代目会長です。「明けの明星」と推定。
特殊な文章を残されています。釈常光師の指導を受けて、サトリの第一段階に入られたようです。そのように推定できる文章を残しています。釈常光師に「高校を出たらすぐに富士道場へ行きたい」言ったところ、釈常光師は「君のような人がそのようにすれば、坐禅に取り憑つかれてしまうから大学に進むほうがよい」と言われて旧制京都大学へ。大学卒業後東大大学院へ進学、卒業。
珍しい文章
神戸大学・坐禅愛好会・般若会が10周年を記念して出版した本に苧阪光龍師が不思議な十牛図の文章を寄稿しています。六図までです。よく読めば「暁天の許しを得て」と書かれています。わたしはこれを「暁の明星」(空海)と読みます。一般的に知らているのは「明けの明星」です。
※(十行図=じゅうぎゅうず=牛を描き込んだ十枚の絵 、サトッタ人が体験を語ると
きに使う)
秋月龍珉 苧阪光龍師に師事して因果証明をもらっています。
のち一般企業に就職。
昭和のサトッタ人の中でもっとも深いサトリをえた人だと推定しています。
秋月氏は東京大学・インド哲学科に学んだ人です。大学卒業後は民間企業に就職され、なんと50歳を過ぎて妙心寺に得度して入門し、一年で嗣法の因果証明をえています。(妙心寺は釈常光が修行した本山だったようです。恩返しとして入山?)
秋月氏のその後の執筆活動から「身心脱落」が入山のきっかけだったろうと推定しています。道元研究に取り組みたくさんの本を残されています。神秘体験すると同じ神秘体験をした人に大変興味を持つものです。
「秋月龍珉全集」(春秋社)も出されています。
さすがの思いで第一巻を興味深く読ませていただきました。
※わたしは思うのです。今の時代と違って情報を得にくい時代で秋月氏は惜しいこと
をされたと。
曹洞宗第四祖・瑩山の「只管打坐」を知っていれば知識を増やすよりも坐禅三昧に
時間を使ったと思われるからです。惜しいことをしました。
※ついでながら、わたしは「無学求道」というペンネームを使っていました。昭和の
サトッタ人たちは東大大学院、東大と続いています。わたしの出身大学は、地方大
学です。大した学歴でもないので無学とひがんでみたのです。
しかし、ずっと後にこの「無学」には大乗仏教の方ではサトッタ人=仏という意
味があることを知りました。
「僭越であろう」といちゃもんをつけられました。標準語では言いがかり?
すでにサトリに入ってずいぶん年数もたっているのでと説明させていただき無学
の使用をこらえていただきました。
いまは涅槃にも達しているので問題はないと思います。わたしはサトッタ人ではあ
っても、せいぜいブッダであり、仏ではありません。原始仏法のお釈迦さん同様
に。
それが正しいと考えています。
なお原始仏法の時代には哲学者を含む数名のブッダがいたそうです。参考までに。
江戸時代の優れた人をとり上げました。盤珪。白隠。
江戸時代に咲いた大輪の花
盤珪禅師
サトリの第三段階は推定できます。よくできた人で深さは計り知れない。
参考文献1:禅門の異流 秋月流珉著 筑摩書房
参考文献2:盤珪禅師逸話選 禅文化研究所
特別な人盤珪禅師
本によると盤珪さんは幼少時から特別な人だったようです。11歳のとき、寺子屋で「大学」の講義を受け、「大学は明徳を明らむるにあり」と習い。先生に「明徳というのが分かりません」と質問したところ。「そういう難しいことは禅寺で聞いてみなさい」と言われて、禅寺を訪ねました。禅寺を訪ねて事の次第を話したところ。住職は「悩みがあってくる人は多いが、人のために極に来たとは、奇特な人だといわれ、坐禅指導を受けることになりました。17歳の時、出家して本格的な坐禅修行に入りました。
8年間。熱心に厳しい修行をして、25歳でサトリに入りました。その師匠に認められました(サトリの第一段階)。師匠の勧めで修行行脚を始める。29歳のとき縁あって、師事した中国人の道者禅師に30歳のとき認められました(サトリの第二段階)。その後だんだんと深められたようです。
「道者禅師がいますれば善き人にして差し上げられたのに」と話されたということです(自身がサトリの第三段階と推定)。
神秘体験が書かれていないので分かりかねるのですが。
激しい修行で命がけでつかんだ境地、不生禅(ひとは生まれながらにして不生不滅の仏心を持っている)という考え方は理解できなかったのですが。ものすごい苦行の末つかまれたと知りました。わたしごときが理解できないのは当たり前のようにも思いました。(この項ウィッキペディアも参照)
盤珪禅師 パート2
参考文献1:禅門の異流 秋月流珉著 筑摩書房
参考文献1 P52
祖禄を看るに時節がある
(法語 62)という原文を省略してつぎに現在語訳をつけます。
「仏経・祖禄などを歴欄いたしますと、学道のためになりましょうか」と問うと、盤珪は「祖禄を看るには時節がある。経禄の理屈を頼る時に読むと、自分の心眼をつぶす。反対に法理を見下すときによむとそれが体験の証拠になる」と答えた。
秋月氏の意見。経禄の理を見下げるほどの体験をまず最初にもって、それから本を読めというのである。昔も今もこれが禅者のいちばん正しい読書法であることに間違いない。
※わたしも同様でした。不思議な体験をして本を探して読むことで。そう
であったのかと思いました。つまり本が証拠立ててくれたのです。
ただし、仏教の根本聖典に書かれていた「涅槃」に気づいたとき、
その前に出てくる解脱同様に神秘体験だと、推定できました。
思ったより長い年数がかかりましたが、一日も忘れることなく精進でき
ました。
※わたしは謝らなければいけません。神秘体験のすべてをこの本に書いて
いるからです。
わたしも、76歳の老人になって、遺言のようなつもりで書いていま
す。お許しください。
とにかく「集トレの精進」が解決してくれます。
白隠禅師
ついでながら、大変名前が知られている割に、サトリが浅かったので、とり上げました。
サトリの深い人からは評価が低い人です。 皆様もできれば、しっかり、精進して、白隠を凌駕して欲しいものだと考えています。
あなた自身やご家族、友人のためです。
本文の内容より著者はサトリでは白隠をしのぐ「第二段階」と認定します。
参考文献:禅入門 秋月龍珉著 潮文社新書
夢と希望 鎌倉時代の優れた人 明恵上人
参考文献:愛蔵版明恵上人 白洲雅子著 新潮社
明恵はいまの和歌山県有田川町に生まれました。幼くして両親をなくし、京都に上がって仏道修行に入りました。熱心な修行で頭角を現し、時には弟子を和歌山に連れて帰り、ともに修行されました。明恵没後、有田に点在する修行の地に弟子の手で砂岩づくりの卒塔婆が立てられ、今も残っています。現地に行って確認しました。
明恵で特筆すべきは「黄金色に輝く獅子の背に乗って文殊菩薩が示現した」神秘体験です。かれは人々に話をする時、よく「その示現があったので皆の前でも話せるようになった」と言っていたそうです。体験した小さな建物があったところにも卒塔婆が建てられていました。
※ シャカも「明けの明星」を見たあと、サトリの自信をえて、サンガ形成に向かわ
れます。
明恵自身、シャカへのあこがれが強く、唐天竺へ行くことを熱望していたという
ことです。
※ わたしとしては明恵上人の神秘体験は「明けの明星」+「文殊菩薩」だと考えた
いのです。
明恵上人は華厳宗の菩薩として文殊菩薩があらわれたのだと思います。明星は実
際に見るとかなりの大きさです。黄金色でもあります。黄金色に輝く獅子に思わ
れても不思議ではありません。
明恵上人は悟った人の名前を書きこんだ「法系図」を残されています。直弟子数名、その中には弟子、孫弟子を育てた人もいてなかなかの法系図です。合計十数名の名前が載っていました。
明恵さんの並外れたやさしさが有名です。
それが坐禅指導に幸いしたのかもしれません。
鎌倉時代の曹洞宗の偉大な人たち 道元 瑩山
日本曹洞宗
・ 道元 鎌倉時代の禅師。曹洞宗の初祖・開祖・道元である。
神秘体験は「身心脱落」。
永平寺を創建。
それまで修行していた比叡山を出て、中国に渡り、運よく中国曹洞宗の天童山如浄に出会いました。道元によると当時の禅宗は『六祖壇経』の影響で自論を喧伝する論客が多い中で、如浄は「身心脱落」、「只管打坐(しかんたざ)」と言いながら坐禅に徹することを指導しました。道元は熱心な坐禅で、「身心脱落」と奏上して、如浄に認められて印可証明を受けました。その大きな紙一枚と自分の体一つで帰ってきました。帰国後少しの変遷があったものの、日本曹洞宗を立ち上げました。道元の永平寺における指導は厳しいものであったが、悟った人を生み出せていない。永平寺は曹洞宗では修行専門道場と位置付けられているようです。
参考文献:喰う、寝る、座る 永平寺参禅修行 野々村薫著 新潮文庫
(著者記。一年間修行しても何も変わっていない)
…が参考になるかもしれません。
また、アマゾンプライム会員であれば「禅」で道元禅師の活躍ぶりが見れます。
・ 瑩山 鎌倉時代の禅師。曹洞宗の四祖・本祖・瑩山である。
神秘体験は「只管打坐」。
密教を学んだあと、はいった永平寺で曹洞宗三祖のゆるやかな導きで、和歌山県・由良・興国寺で一年間、臨済宗の公案禅の修行をした。公案禅のその成果ともいえるものを「坐禅用心記」(瑩山著)に見ることができます。瑩山は自分の弟子を興国寺に送り修行させています。
[ 訳 ] なお、心が散乱しておさまらないときは、一つの公案をとり上げて参究し、こころが散乱しないようにせよ。
たとえば、「なにものがこのようにやってきたのか」という公案、「犬には仏性がない」という公案、「雲門の須弥山」という公案、「趙州の拍樹子」という公案などである。
これらの公案は分別し思量するこころによってはあじわうことの出来ない話であって、心の散乱に対応するには、もっとも適している。
※ わたしにわかるのは「犬には仏性がない」だけです。いわゆる「無字の公案」
と言われる公案です。
中国にカタカナがないので、漢字で表音します。
それで、無を「ム」と理解して、利用して、大いに役に立ちました。
※ わたしの場合。身心脱落のあと2か月後に只管打坐を体験しました。
集中力の差というより、いつも通りの食事をし、自分の部屋でやりたいような
集トレができたからだと考えています。
禅宗本山での修行は早朝に始まり、夜更けまでするようですから。
「喰う、寝る、座る 永平寺参禅修行」にあるとおりです。
日本の鎌倉時代の禅宗の優れた人たち
これからは日本の禅宗について取り上げますが、すべてを知っているわけではありません。
心地覚心(生前は心地覚心。死後、無本覚心。法灯国師と共に朝廷より贈られました)
空海が弘法大師だったが、国師を与えられているので取り上げてみました。神秘体験については不明です。
覚心は高野山で修行したあと、中国で修行することにしました。天台山でそこの壁に書かれている文章を読んで、「得法」(仏法の真理を会得すること)しました。のちに臨済宗の本山で修行し、熱心な修行の結果、印可証明をいただきました。それとともに門外不出の公案集「無門関」をいただいて帰国しました。さっそく高野山に報告に行きました。のち高野山や京都で坐禅の普及につとめました。この活躍ぶりに感銘を受けた源氏の要人が由良の西方寺に住させ、坐禅指導させました。のちに興国寺として、今に至っています。
覚心は無門関を使っての指導がじょうずだったようで、たくさんの優秀な人材を育てました。
図書館で見た法脈図をのせた大きな本でも「法燈派」としてのせられていて、優秀な弟子のあとには弟子、孫弟子、ひ孫弟子までも続いていたりします。それでもたぶん、7代くらいで消滅していました。
曹洞宗の瑩山も一年ばかり覚心またはその弟子に臨済宗の坐禅の指導を受けています。この指導が気に入ったのか、のちには自分の弟子たちも興国寺に送っています。